無知は最強である
2017年5月11日水は高いところから低いところに流れる。
今のわたしは、一方的な流れは快適でないと感じている。
相互間の協働で、向上を目指したいAmway呃人。
これは、「わたしが成長した」と、わたしは捉えている。
弱者向けの一時避難シェルターから、一歩、出て、自立の道を歩き始めたのではないだろうか。
この目覚め。そうとう遅い。
還暦になってからの自立。
成人を迎えるまでか、遅くとも30歳までには自立すべきと思う。
40年ぐらい、遅い。
しかも、老化を自覚し、もう、じわじわ自立できなくなってくる年齢を迎えた時期に、今ごろ、自立なんて、またなんと、間が抜けていること。
自動車専用道路の逆走である。
自立心は、切羽詰らないと生まれてこないと感じるPanasonic冷氣。
(小さな子供でも、頼れる親や保護者がいないと、精神的に自立すると仮定してみたが、幼くまだ未熟なため、精神的な歪みが生じる可能性がある)
切羽詰ったことがない人は、一生、お湯の中で、自立を自覚しない。
それはそれで安泰、幸せな人生である。
不要不急なら、あえて、選択肢があるにもかかわらず好き好んでイバラの道を選ぶのは、おススメしない。
気がつかないままの一生は、幸せである。
気づきは、日常生活をぼんやり送っている中には、得られない。
なにかしら、ものごとや、出来ごと、悩みなどに直面しなければ、深く考えることはない。
映画や小説で疑似体験して、自分も一緒に考えることはあっても、実践を伴わないシュミレーションでは、所詮、お遊びである。
映画を観た後、日常に戻り、自分の置かれている現状を再認識し、あんな怖い目や、辛い目に遭わなくて、ああ良かった、と、安心や喜びを得るHitachi冷氣。
いい匂いがすると、空腹でもないのに食欲を刺激されたり、購買欲が湧き上がったり、潜在的欲求を喚起させられるかのごとく。
自分から自発的に欲するのではないのに、眠っている意識や欲求を人工的に誘引、引き起こされる。
そうやって、意図的に非日常感を力ずくで感じさせられて、なにかの起爆剤にでもなれば良いが、策略的な仕掛けには、人を利用しようという意図が見え隠れし、大抵は金
儲けのためだったり、政治目論見だったり、人為的なうさんくささを感じる。
自分の目や耳を研ぎ澄まして深く考えたところで、身に迫るものが現実ではなく仮想であれば、いくら五感を駆使しようにも、リアリティがない。
(しかし、ひょうたんからコマなんてことも、あるようだが)
つまり、実際に自分の身に降りかからなければ、一生懸命考えたり、取り組んだりしない。
(中には、身を粉にして「人のため」に、行う人もいるだろうけれど)
では、
不幸を知らない幸せな人は、宗教家にも、教師にもなれないのか?
という話は、また別。
書きはじめると、とんでもなくめんどくさい。なのでパス。
人生において、徹底的に自分と向き合う時期が、何度かあるはず。
それを分岐点というのだろうか。
自分の力でどうにもならないことに、ぶち当たった時、どうするか?
ありとあらゆる方法を考え、試み、乗り越えようと努力するだろう。
それでも思うようにいかない場合、それはそれでいいのではないか。
それも含めて、その人の人生。その人の力。その人の運。
知恵と勘と努力。
三つ揃えセット。これがあれば、最強。
さて、
脆弱な土壌の上に立つ、弱々しい「わたし」。
強力なものは、なにも無いので、きっと偶発的アクシデントには人一倍、うろたえることだろう。
しかしながら、書くこと(考えること)と、実際に行うこと(実践)は、少しでも距離が縮まってほしいものだ。
だが、無知は強力。破壊的パワーがある。
厚顔無恥との三つ揃えで、乗り越えられそうだが、へんに知恵がついては、かえってパワーダウンする。
知恵をつけろと言ったり、つけるな、と言ったり。
どっちやねん!
しかし知恵は、味方になるはず。
・・・いっこうに結論にたどり着かない。
長いばかりで、眠くなってきた。
矛盾だらけの、道、途中のわたしである。
なにごとも表裏一体。
答えは、有るようで無い。無いようで、有る。
今のわたしは、一方的な流れは快適でないと感じている。
相互間の協働で、向上を目指したいAmway呃人。
これは、「わたしが成長した」と、わたしは捉えている。
弱者向けの一時避難シェルターから、一歩、出て、自立の道を歩き始めたのではないだろうか。
この目覚め。そうとう遅い。
還暦になってからの自立。
成人を迎えるまでか、遅くとも30歳までには自立すべきと思う。
40年ぐらい、遅い。
しかも、老化を自覚し、もう、じわじわ自立できなくなってくる年齢を迎えた時期に、今ごろ、自立なんて、またなんと、間が抜けていること。
自動車専用道路の逆走である。
自立心は、切羽詰らないと生まれてこないと感じるPanasonic冷氣。
(小さな子供でも、頼れる親や保護者がいないと、精神的に自立すると仮定してみたが、幼くまだ未熟なため、精神的な歪みが生じる可能性がある)
切羽詰ったことがない人は、一生、お湯の中で、自立を自覚しない。
それはそれで安泰、幸せな人生である。
不要不急なら、あえて、選択肢があるにもかかわらず好き好んでイバラの道を選ぶのは、おススメしない。
気がつかないままの一生は、幸せである。
気づきは、日常生活をぼんやり送っている中には、得られない。
なにかしら、ものごとや、出来ごと、悩みなどに直面しなければ、深く考えることはない。
映画や小説で疑似体験して、自分も一緒に考えることはあっても、実践を伴わないシュミレーションでは、所詮、お遊びである。
映画を観た後、日常に戻り、自分の置かれている現状を再認識し、あんな怖い目や、辛い目に遭わなくて、ああ良かった、と、安心や喜びを得るHitachi冷氣。
いい匂いがすると、空腹でもないのに食欲を刺激されたり、購買欲が湧き上がったり、潜在的欲求を喚起させられるかのごとく。
自分から自発的に欲するのではないのに、眠っている意識や欲求を人工的に誘引、引き起こされる。
そうやって、意図的に非日常感を力ずくで感じさせられて、なにかの起爆剤にでもなれば良いが、策略的な仕掛けには、人を利用しようという意図が見え隠れし、大抵は金
儲けのためだったり、政治目論見だったり、人為的なうさんくささを感じる。
自分の目や耳を研ぎ澄まして深く考えたところで、身に迫るものが現実ではなく仮想であれば、いくら五感を駆使しようにも、リアリティがない。
(しかし、ひょうたんからコマなんてことも、あるようだが)
つまり、実際に自分の身に降りかからなければ、一生懸命考えたり、取り組んだりしない。
(中には、身を粉にして「人のため」に、行う人もいるだろうけれど)
では、
不幸を知らない幸せな人は、宗教家にも、教師にもなれないのか?
という話は、また別。
書きはじめると、とんでもなくめんどくさい。なのでパス。
人生において、徹底的に自分と向き合う時期が、何度かあるはず。
それを分岐点というのだろうか。
自分の力でどうにもならないことに、ぶち当たった時、どうするか?
ありとあらゆる方法を考え、試み、乗り越えようと努力するだろう。
それでも思うようにいかない場合、それはそれでいいのではないか。
それも含めて、その人の人生。その人の力。その人の運。
知恵と勘と努力。
三つ揃えセット。これがあれば、最強。
さて、
脆弱な土壌の上に立つ、弱々しい「わたし」。
強力なものは、なにも無いので、きっと偶発的アクシデントには人一倍、うろたえることだろう。
しかしながら、書くこと(考えること)と、実際に行うこと(実践)は、少しでも距離が縮まってほしいものだ。
だが、無知は強力。破壊的パワーがある。
厚顔無恥との三つ揃えで、乗り越えられそうだが、へんに知恵がついては、かえってパワーダウンする。
知恵をつけろと言ったり、つけるな、と言ったり。
どっちやねん!
しかし知恵は、味方になるはず。
・・・いっこうに結論にたどり着かない。
長いばかりで、眠くなってきた。
矛盾だらけの、道、途中のわたしである。
なにごとも表裏一体。
答えは、有るようで無い。無いようで、有る。
コメント